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訓練は海岸において、7月18日より28日までの10日間、午前中に施行するものとした。
海岸とは以前から同校が水泳訓練を行ってきた場所で、満潮時にも数十m幅の砂浜を残す遠浅の海である。
水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時であった。
無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。
ところが海に入ってから4,5分後、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れはじめた。
生徒のほかに女性教諭も溺れていたらしい。
溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。
校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けている。
教諭の一人が自転車で約500m離れた病院に急を告げ、医師が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸を施した。
次いで病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察がはじめて事故を知り、大学病院や日赤病院に応援を求めた。
警察署からは救援隊が、機動隊、自衛隊衛生班、県庁職員も出動した。
4名の漁師も舟で救援に協力した。
大学病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。
14時50分には日赤病院から医師6名,看護婦10名も到着した。
37名を引き揚げ、必死の手当てで1名は意識を回復したが、36名は生き還らなかった。
後ほどの調査では、引率の教師に連れられた中学の女子生徒たちはいつものように準備体操を終え、海に入った。
引率の教師はしばらく自由時間とし、タイマーを手に一瞬生徒達から目を離した。
教師が再び海に目を向けた時、水面には一人の生徒しか浮かんでおらず、残りの生徒は全て水の下に沈んでしまっていた。
36名の女子生徒は次々と遺体となって打ち上げられたという。
ただ一人生き残った生徒が「防空頭巾を被った女の子が隣を泳いでいて、いきなり脚を引っ張られて海に引きずり込まれそうになった」と証言したらしい。
○市は太平洋戦争中の7月末に大空襲を受け、市街が甚大な被害を受けて焼け出された人々は海岸に集まっていたところ、そこへ焼夷弾が命中したため波打ち際は焼死体で埋まっていたらしい。